『ヘルタースケルター』の主人公、全身整形の「りりこ」が体現した、ほんとうの「女の主体性」/北条かや
2017.05.27 更新

出典 http://hs-movie.com/

2012年に公開された映画『ヘルタースケルター』(原作・岡崎京子、監督・蜷川実花)は、同じ女として衝撃的だった。いわずとしれたストーリーは、全身整形のスター「りりこ」が、芸能界の頂点に上り詰めるも、ある出来事がきっかけで「整形歴」を暴かれ、美容整形の後遺症も悪化し、追いつめられていくというもの。多くの人はたぶん、この作品を見て反射的に、「整形美女の顛末」や「美を追求し続けることの怖さ」を感じたと思う。実際、筆者の周りでもそのような感想を述べる女性は多かった。が、今回はその、”運命に翻弄された悲劇のヒロイン”、りりこが、ほんとうの意味で「実は主体的だったのではないか」ということを考えてみたい。

映画『ヘルタースケルター』のキャッチコピー「最高のショーを、見せてあげる」が象徴するもの

12年公開の映画『ヘルタースケルター』は、原作と比べて残念な点もあったが、キャッチコピーがとにかく秀逸だった。「最高のショーを、見せてあげる」――これは間違いなく、主人公、沢尻エリカ演じる「りりこ」の主張だ。「見せてあげる」という言葉の、どこがすごいのか。りりこのような職業(タレント、女優、モデルなど)は、ふつう「見られる立場」であることを強く意識しているはずだ。りりこは、それをあえて「見せてあげる」と表現する。「女としての商品価値でもって、社会から見られる、消費される」はずのタレント、りりこが、いつのまにか「見る存在」として、マウントポジションに立っているのである。しかも「最高のショー」である。この「ショー」は、原作でより詳細に描かれている。彼女が全身整形でスターに上り詰め、そして凋落していくさまは、すべて「ショー」なのだ。そして、りりこはそれを十分に認識している。原作では、より「りりこ」が客観的に自分を見つめている様子が描かれている。その欲望へと向かうエネルギーは、こちらが圧倒されるほどだ。

映画『ヘルタースケルター』沢尻エリカ

出典 http://www.eyescream.jp/special-all/interview/mika-ninagawa

女として「見られることの苦しみ」から解放される方法

りりこを全身整形させた芸能事務所の女社長は、彼女を若かりし頃の自分と同じような外見に作り上げた。いわばりりこは、女社長の不気味な欲望が投影された「作品」なのだ。女社長の欲望や、若い女性たちの憧れを一心に集め、りりこは美の「記号」としてメディアに流通する。若さと、作られた美貌でメディアを席巻し、りりこは苦悩と恍惚を味わう。体はいつか、医療行為の副作用で崩れてしまう。苦しんでいるように見えるりりこだが、こんなことも言っている。

「あたしはあたしがつくったのよ あたしが選んで あたしがあたしになったのよ」(岡崎京子、『ヘルタースケルター』祥伝社、2003より)

彼女は壊れていく過程で、実はすごいことを言っている。「見られることの恍惚も苦悩も含め、あたしの人生は、あたしが選んだ」と断言しているのだ。誰にも私をコントロールなんてさせない。あたしが、すべてをコントロールしてやる。誰がなんと言おうと、あたしは、あたしなりの幸せを掴んでやる。それが世間から非難されたって、何が問題なの?……こうしてりりこは、芸能界で「見られること」の煩悩から解放されていく。映画版では、そのあたりのプロセスが細かく描かれていないのが残念だが、原作ではより深く、彼女が「解放」へと向かう過程がわかるつくりになっている。

岡崎京子、原作『ヘルタースケルター』

出典 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4396762976

「見られる側」から「見る側」へ ※ネタバレ内容あり

『ヘルタースケルター』を、整形美女の崩壊ストーリーという筋書きだけで見るのはもったいない。同作品には、「見られる存在」である女が、いかにして「見る存在」へと変貌を遂げるか、という重大な論点が隠されているからだ。りりこは最終的に、美容整形手術の後遺症が限界に達し、メディアにもゴシップを書き立てられ、困窮する。結果的として、大勢のカメラの前で記者会見をすることになる。が、その直前、彼女はまったく動じることなく、ナイフで自らの片目をくり抜くのだ。いわばりりこは、美しいスターから、一夜にして「異形の者」となったわけだ。

そんな彼女は数年後、異国の地で「片目のない女」として、フリークショーに出ていることが示唆される。りりこは「他人に見られるために作られた顔」を、ギョッとするような「異形」に自ら変え、それを見せ物にしている。観客は、手を叩いて喜ぶ。いや、私が「喜ばせてあげている」のだ。りりこは言うだろう。「フリークショーに出ている私と、芸能界に君臨していたときの私は、違うように見えるかもしれないけど、基本的には同じよ。私が、『私を見せる主体』であるということ。その構造は、私の外見がどんなに変わっても、同じなの」。

「見られる側」ではなく「見る側」にいる限り、りりこは確固たる主体性を体現している。多くの女にとって(男にとってもそうかもしれないが)、「見られる側」でいることの苦悩は大きい。他者の目を延々と気にすることになるからだ。だからこそ、あっけらかんと「見る側」に回ってしまうりりこの「主体性」に、多くの鑑賞者(特に女性)は虜になったのではないか。『ヘルタースケルター』を読むとき、私はいつも、1人の「見られる存在」たる女として、りりこの主体性に憧れる。そういう女は、結構いるのではないかと思う。

yuki

北条かや

1986年、石川県金沢市生まれ。ライター。同志社大学社会学部、京都大学大学院文学研究科修士課程修了。著書に『整形した女は幸せになっているのか』『キャバ嬢の社会学』(いずれも星海社)。NHK「新世代が解く!ニッポンのジレンマ」、TOKYO MX「モーニングCROSS」などに出演する。
【Twitter】@kaya_hojo
【Facebookページ】北条かや
【ブログ】コスプレで女やってますけど

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